これは何?
- 最愛の母が倒れ、最期に至るまでを文章に残しておきたい気持ち
- 近しい方々に向けて、起きたことを正確に伝えたい気持ち
- 身内の急逝で何が起きるのかを広く伝えたい気持ち
- 多くの気付きがあった為、それらを併せて伝えたい気持ち
- 当時の記憶や通話履歴を辿りながら書くため、時間などは正確じゃないかもね
- 心境の変化を正確に伝えたい意図から、辛辣な表現を含みます
- 方言を共通語に訳しています
場所
家族構成
我が家
- 父さん
- 母さん
- わい(これを書いている人)
姉夫婦
- 義兄
- 姉
- 甥っ子
わいの概略
1976年01月27日
- 大間町に生誕
1994年04月
- 高校卒業後に上京
- 以降、東京都で一人暮らし
2018年12月14日
- 諸事情により帰京
- 帰京の理由については、壮大なテーマになってしまうため今回は割愛
2020年06月23日
- 母さん急逝
2020年07月03日
- スターダストレビュー「木蘭の涙」をBGMに筆を取る ←今ココ
"その時"は突然訪れた
わいはIT系のシステムエンジニア・プログラマーを生業としており、昨今の新型コロナ問題は関係なく都内在住時からリモート勤務の経験があった。そのため、自室に居ながらも都会の企業様からオファーを頂き、ありがたいことに2019年10月より契約を結び、ネットで新鮮なお花が買えるWEBシステムの開発に従事している。父さん・母さんは安心したことだろう。
わいは仕事がない期間は、食器洗いなどをやっており、母さんに「ありがとう」と言われていた。
勤務時間は 09:00-18:00 で、仕事終わりには毎日、母さんが「お疲れ様」と言ってくれて、それが嬉しかった。また、母さんは家事が一段落するとリビングでクロスワードパズルをよくやっており、わいがリビング横を通る際、謎のアイコンタクトを交わすことがよくあった。
- わい「(母さんが気付くまで熱い視線を飛ばす)」
- 母さん「なーによ」
- わい「ううん」
- 母さん「ふふっ」
というやりとりが毎日のようにあった。また、母さんは一回の勤務が2時間ほどの、お皿洗いのパートタイムを2019年12月から週3〜4ペースでやっており、その際にも、
出かける時
- 母さん「行ってくるから」
- わい「おかえり」
- 母さん「今から行くの(ふっ)」
帰ってきた時
- 母さん「ただいま」
- わい「おかえり」(ここはちゃんと言う)
という会話も、毎日のように交わしていた。
■2020年06月20(土) 12:45頃
前日は甥っ子の誕生日で、母さん・父さんは自転車を買ってあげたり、わいはAmazonで甥っ子が欲しがっていたゲームソフトと、欲しがってもいない江頭2:50のフィギュアを贈っていた。父の日が控えていることもあり、姉と甥っ子は朝から、父さんへのプレゼントを持って家に来ていた。
朝、父さんが獲ってきたウニを、母さんが捌いて、昼ごはんはウニ丼を食べさせてくれた。ウニを綺麗に捌くのはとても大変で、午後からパートもあるしで朝からバタバタしていた。
わいは休日はしっかり休ませて頂いていたが、休み明けのスタートダッシュを華麗にキメたいので、曜日関係なく予習・復習をよくやる。そんな、いつもと変わらない日常。身内が集まって最高の1日が始まる、筈だった。
この日のシフトは13時15分からだった。いつもの通り、
- 母さん「行ってくるから」
- わい「ただいま」
- 母さん「ふふっ」
と会話した。わいにとって、これが母さんとの、最期の会話となった。
■2020年06月20(土) 14:30頃
家の固定電話が鳴り、姉が取った。その直後、姉は血相を変えて叫ぶ。
「秀行!(わいの名前)職場で母さんが倒れて病院に運ばれたって!」
甥っ子に留守番を頼み、父さん・姉・わいは車で大間病院へと向かった。わいは何故か落ち着いており、1人だけ着替えて携帯と財布を持って家を出ていた。病院までの車中では、3人とも「どうせ人違いじゃね?」くらいに考えていた。わいは母さんの携帯に架電したが、やはり出てくれない。「仕事中なら出ないよね」と姉が言った。
数分後、病院に到着。わいは駆け足で受付に向い「先ほど運ばれた松山信子の身内ですけど」と早口で話した。「その名前の人は運ばれていませんが」の反応を期待したが、直ぐに治療室前に誘導される。次いで父さん・姉もやってきてソワソワしていたところ、母さんの同僚の女性が事情を説明してくれた。
女性「(職場で)頭が痛い、手が痺れると言って横になった後、意識不明になった」
そう聞いても、我々はその女性を知らないし「きっと"別の松山"だ」と、この時点でも思っていた。と言うより、信じていた。その後、救急隊員と思しき男性が「ドクターヘリをチャーターした」と話しかけてきた。我々は「もし本当に、人違いではなく母さんのことだとしたら、きっと県病(青森市にある大きい病院)で助かるのだな」と、その意味を解釈した。
治療室には別の重症患者も居るようで、悲鳴が廊下まで響き渡っていた。それは男性の声だったが「ひょっとしたら母さんでも、苦しんだら出る声なのかな」などと思いながら、廊下で待機していた。
ドクターヘリは予定の時刻になっても現れなかった。後で解ったことだが、母さんは倒れた直後から意識を失い、心肺停止の仮死状態だったため、蘇生と生命維持のため時間がかかっていたとのこと。
しばらくして治療室のドアが開き、担架で1人運ばれてきた。父さん・姉は座位でそれを見ていたので確認が遅れたが、わいは立って見ていたので、それが母さんだと直ぐに判った。
やばい、息ができない。
■2020年06月20(土) 14:45頃
着の身・着の儘で家を出ていた父さん・姉は、必要な物を取りに一時帰宅。病院にはわい1人が残った。しばらくすると医師から呼び出される。
医師
- 「脳橋(のうきょう)出血と言って、脳の中心に大量の出血があります」
- 「治療は、できません」
- 「回復することは、ありません」
- 「できることは、ありません」
わい
- 「”できません”だけじゃなく、できる事を言えよ!そう言ってこの後、母さんはどうなるんだよ!」
医師
- 「ここ(大間病院)で、このまま・・・」
ふざけるな。ほんの2時間前に元気な姿で出かけた母さんが、なんでそうなるんだよ。何を訊いても「できません」「ありません」しか言わない、同じ台詞を繰り返し話すだけの医師に腹が立ち、怒りから涙が出てきた。わいには、とてもベストを尽くしたようには見えなかったからだ。
この時間帯の記憶は曖昧だが、
「助けられないのは、お前らの技量が低いからだろう!」
それくらいの事を叫んだ気がする。その後、半ば命令してドクターヘリを飛ばさせた。ヘリの発着場は少し離れた場所にあるため、そこまで母さんを救急車で運ぶ。わいが母さんと同乗すると姉が戻ってきた。
- 姉「頼んだ」
- わい「うん」
その後、母さんと一緒にドクターヘリで青森市中央病院へと向かった。生まれて初めてのヘリ。わずか25分で着くのは凄いことだが何の感情も湧かなかった。道中、わいは母さんから視線を逸らすことなく、ヘリは青森市内に着陸した。
■2020年06月20(土) 15:30頃
青森市中央病院に到着。母さんとわいが飛び発つと同時に、父さん・姉は陸路で青森市へと出発していた。わいはこの病院の医師からも説明を受けたが、内容は大間病院のそれと同じだった。ここでも、
- 「手術は、できません」
と言われた。そしてまた同じ説明が何度も繰り返される。聴くだけで死にそうになる悪魔の呪文に感じ、耳が聴く事を拒んだ。医師が同じ内容を繰り返すのは恐らく、聞こえていない、伝わってない場合の説明責任を果たすためだろう。そして、「病院側としては助からないのを判っていて、それでも受け入れた」と念押しされる。
お次は、白衣の女性がニコニコしながら大量のアンケート用紙を持ってきた。永遠と質問に応えなければいけない地獄の時間が始まったが、流石に辛抱できず、
- 「この時間は何なんですか!?こんなもんに付き合える状態だと思ってんのか!」
ブチ切れて、アホみたいな時間を強引に終わらせた。
母さんはEICUという集中治療室で眠っていて、わいは隣にある家族用の控室と、母さんとの間を行ったり来たりしていた。母さんに話しかけ、頭を撫で、手を握ったりを繰り返し、その度に涙が溢れた。どうしてこうなったんだと何度も自問しながら目の前の現実を認められずにいた。「母さんに触れるのは子供の頃以来だな。何年前だっけ」と考えるが、単純な暗算すらできない。
ただ眠っている様にしか見えず、自力で呼吸し、時折足も動かしている母さんが、本当にもうダメなのか?もはや、奇跡を信じることで自我を保っていた。
ここら辺の記憶は曖昧だ。多分この時、わいの本心は諦めたのかもしれない。母さんは手術中だと思っている父さん・姉に、伝える言葉を脳内で作文した。
■2020年06月20(土) 15:45頃
移動中の父さん・姉にとって、今のタイミングで現実を伝えるのは運転に支障を来すと思ったので、作文した言葉は会って直接伝えることにした。その前に、なるべく早く父さんの携帯に「覚悟が必要だ。」と伝えるため電話した。運転中の父さんに代わり姉が出た。
- わい「覚悟しといたほうがいい」
- 姉「うん」
この時、姉・父さんは”手術失敗に対する覚悟”と解釈したに違いない。だって、他に言葉が浮かばなかったんだもの。
■2020年06月20(土) 18:30頃
家族用控室に居ると、廊下から父さん・姉の声が聞こえた。どうやら母さんのいる場所が解らず迷っているらしい。2人の会話から、気を張って明るく振る舞っているのが判った。控室に2人を案内し、状況を説明しようと先程の脳内作文を伝えようとしたが、
- わい「母さんは、もう助からない」
- 父さん・姉「は?手術は?」
- わい「手術は、できないって」
なるべくショックを与えない文言を考えていたのだが、事実そのままが口から出てしまい、父さん・姉は絶句した。わいもこれ以上続ける気力が無かったので「先生の説明があるから、待とう」とだけ言った。1分ほどの沈黙があった後、看護師が部屋にやってきて「先生からお話があります」と。看護師はわいに「もう一度説明を聞きますか?」と訊いてきたが、とてもそんな気にはなれなかった。姉は医師に喰ってかかり、父さんは、どうか助けてやってくれと泣き崩れたと後から知った。2人の感情は、わいの3時間前と同じ道を辿っている。
その後、義兄(以下、兄さん)と甥っ子が病院に駆けつけ、2人もまた同じ道を辿る。母さんは甥っ子のことが可愛くて可愛くて仕方がなく、それはもう溺愛していた。容姿が小さい頃のわいとそっくりなのも一因かもしれない。甥っ子もそれが解る歳になっているので、わいは見るに耐えかねて集中治療室を跡にした。
その後は夜通し、父さん・姉・わいの3人が、それぞれのタイミングで控室と母さんとの間を何度も往復した。心身ともに限界に来ていたが、そんなことは関係なかった。
母さんは予てから「全身に管を挿されてまで生かされるのは御免だ」と言っており、我々もそのことを記憶している。しかしどうだ、眼前の母さんは、自身が最も嫌った姿そのものだ。わいは母さんが可哀想になり、泣いた。
こんな残酷なことが他にあるだろうか。母さんが一体、何をしたと言うんだ。
■2020年06月21(日) 15:15頃
この日は朝から近しい親戚達が控室に集まっていた。皆が落胆・涙したが、知った人が増えて安心したのか徐々に雑談できるようになっていた。親戚達が一旦病院から引き上げると医師から説明が。この病院で最期を待つのか、それとも生まれ故郷に戻って待つか、の二択を迫られ”助かる道”は選択肢に無かった。
大間病院の医師が語った内容が、正しかったのが解った。
姉は「こんな知らない土地で、知らない人に囲まれて逝くより、生まれた土地の方が良いに決まってる」と泣いた。父さん・わいも同じ気持ちだった。ただし安全のために人工呼吸器の装着が必須だと医師は言う。それは延命措置になるため、我々が後で”母さんを楽にさせてあげたい”と望んだとしても、人道的見地から取り外せないとのこと。
姉は「それは自分らの都合だろう!」と憤慨したが、わいの気持ちを代弁してくれた感じがして、意外とあっさり腹に落ちた。
なんとなく一区切りついた事と、風呂と睡眠が欲しかったため、わいが病院近くのホテルを予約してチェックイン。3人で食べ物とお酒を買い、わいの部屋に集合して呑み食いし解散。わいはシャワーを浴びたが寝付けず、追加で買った酒を呷って寝た。
父さんにとって人生最悪の"父の日"。
「これは金のかかった盛大なドッキリで、目が覚めたら母さんも起きてたりして」
■2020年06月22(月) 08:48
10:00にチェックアウトのつもりで支度していたが、病院からの電話が鳴った。昨日の時点では陸路で母さんを搬送する予定だったが、大間病院の受け入れ確認が取れ、ドクターヘリも飛ばしてくれるとのこと。緊急時以外でヘリを飛ばすことは超法規的措置らしい。陸路だと4時間弱なところが25分になるので、母さんも楽だろう。
姉に連絡を入れロビーに集合、チェックアウトして病院へ。残念ながら帰りのヘリには親族でも同乗できないとのことで、我々はヘリの出発を待たず車で大間病院へと移動を始めた。その道中の11:52、青森市中央病院からヘリが発ったと架電あり。
昼過ぎに大間病院に着いたが、直ぐには母さんには会えず、何待ちか解らない時間が流れた。その後、医師から呼び出され現状と今後の説明を受けた。その医師は一昨日、わいが怒鳴り散らした相手だ。母さんの今後は、生命活動が緩やかな下降線を描くように低下していき、まず肝臓が機能不全になり、そのまま。という事だった。わいの頭は、その現実を受け入れつつあった。
人工呼吸器から吸入する酸素量を強くする事で、長く持たせることは可能だと医師は言う。逆に、それを行わないことで、自然な形で母さんを楽にさせてあげられると。またもや選択を迫られる。
我々はきっと、皆が同じ気持ちだったろう。わいはとっさに「母さんを楽にさせてあげてください」と泣いた。すると医師は「安楽死になるような行為は一切行いません」と念押し。うるせーこの野郎、今のは間違えたんだよ。
父さんは「どうか母さんが苦しまないように、してあげてください。お願いします」と泣き崩れた。父はもう、とっくに限界を過ぎている。わいが母さんと同じ屋根の下で過ごした月日はトータルで20年に満たないが、父さんは倍以上だ。そんな父さんを見て、わいは泣きながらも己を奮い立たせた。
その後、母さんと再会し、「母さん、大間だよ、帰ってきたよ」と父さんが語りかけると、母さんの足が動いた。
■2020年06月22(月) 21:00頃
父さんと2人、あれから寝ずに母さんの側にいる。いつ急変してもおかしくないと宣告されており、"その時"には必ず傍に居たいからだ。何より、母さんを独りぼっちにしたくない。
頭を撫でたり、話しかけたりすると、母さんは少し足を動かしてくれた。ここからは、希望と絶望が数分毎に入れ替わる。一度は枯れた涙が蘇って圧し潰されそうになるが、外の空気を吸うと少し楽になり、また母さんに触れる。その繰り返しだった。この頃から、父さん・わいは電話さえ入れれば自由に出入りできるよう、ナースステーションが対応してくれた。
だが流石に、このままだと父さん・わいのどちらか、さては2人とも倒れてしまうと思い、父さんに交代制を提案。わいが先に家に戻り、3:00に戻ってきて交代することにした。姉にも電話して、この事を共有した。
タクシーに乗って誰も居ない家に帰宅した。数年ぶりに帰ってきたかのような錯覚があった。わいが先ずやったことは、伸ばし放題だった髪を自分で切ることだった。その後、煙草を何十本と吸いながら、シャワーを浴びて寝たのが2:00頃。バナナを一本食べた。眠れなくても良いから目を閉じて横になるだけでも回復効果がある、というゴルゴ13で読んだ豆知識を思い出していた。
寝る前にインターネットで脳出血後の昏睡状態について調べた。耳が聴こえており、意識もあったという生還者の逸話を見つけ、ふと思い出した。母さんは新型コロナによる不要不急の外出を控える風潮の中で、最近ファンになった”あいみょん”のCDを買いに出かけていた。わいには「父さんには内緒だよ(笑)」と。わいはiPhoneに曲をダウンロードし、イアホンを持って病院へと向かった。
■2020年06月23(火) 03:00頃
父さんと交代。わいは母さんが特に好きだった"マリーゴールド”を聴かせた。奇跡を信じながら。偶然かどうかは解らないが、母さんはこれまでより動くようになった。もしかしたら嫌なのかなと思い、片方のイアホンを自分の耳に挿して音量を調節したり。
どうしても目鼻・口周りが汚れてくるので、わいは置いてあったティッシュを使い、母さんの顔を綺麗に保つことに専念した。
■2020年06月23(火) 15:00頃
父さんとの交代を何度か繰り返す内に、自宅から病院に向かうのが嬉しくなっていた。
「また母さんに逢える」
そう思うと暖かい気持ちになった。そして今はわいが病院に居る。
研修医がやってきて、母さんをまるで物のように分析している。「お前らも植物にしてやろうか?」と思ったが、それ以上何かする気力は残っていなかった。医学の発展のため、そういうのは必要なんだろうけど。知るかよ、そんなもん。頼むからさっさと消えてくれ。
その後、医師から「いよいよだ」な旨の報告があったので、急いで父さんに電話した。この時、誰かが色んな人に召集をかけたようだが全く憶えていない。機械が1時間に一回、母さんから採血し成分を調べている。それの結果について、
- 医師「肝臓が弱っているのと、筋肉が壊れ始めている反応があります」
- わい「そうですか」
テレビドラマや映画でよく見かける、アラーム音に反応して看護師が走ってくるシーン。母さんの場合もアラームが鳴りっぱなしだが、もう良くなることはないので音だけは止めてもらった。もう二度と、あの音は聴きたくない。
■2020年06月23(火) 19:45
それからは本当に辛かった。看護婦が母さんの”たん”を吸い出すときに人工呼吸器を一旦取り外すのだが、その時間が1〜2分あり、母さんは苦しそうに身をよじる動きをする。時には酷くむせ返ったように、体が飛び跳ねたりもした。わいはその姿を、歯を食いしばり目に焼き付けた。
徐々に母さんの生命活動は低下していき、もはや計器で数値が計れない程に弱っていた。婦長が、勉強中だと言うアロマ・マッサージを母さんの手足にしてくれて
「お顔も、手足も綺麗。働いた手だけど、それでも綺麗」
と、ほんのり涙しながら褒めてくれた。母さんは美意識が高い人なので嬉しかったと思う。一時的に体温が戻り計測できるようになったが、それも長くは続かず、呼吸から得られる酸素量も徐々に減っていった。
「いよいよだ」から半日、まるで近しい身内の集合を待っていたかのように、母さんは急変した。
倒れてから4日目。その間、一度も意識が戻らず、一度も目を開けることもなく、
2020年6月23(火) 19:45 母さんは旅立った。
(みんなが集まるまで頑張ったんだね、母さん)
奇跡は、起こらなかった。
我々は着替えを済ませた母さんを、父さんが運転する車で自宅に移した。
「うちに着いたよ。よかったね、母さん」
法要・法事、母さんとの思い出
■2020年06月24(水)
14年前、東京都民として30歳を迎えた際に、母さんと交わした会話を思い出していた。この節目に、わいはこのまま東京に居続けていいのか?それは親不孝なのではないか?という思いを、母さんに伝えていた。
- 母さん「わたしも実は、ガソリンスタンドで働いてた頃、父さんに捕まらなかったら都会で自分を試してみたかったの。それを今、秀行が代わりにやってくれているから、それでいいの。生まれた土地でゆっくりと歳をとり、それで死んで行けたら、それで幸せなの。親不孝なことなんて何もないんだから、思うように生きなさい。母さんにとっては、秀行が健康なのが一番の親孝行なの。なに泣いてるのバカ(笑)」
わいは母さんの棺にミニ胡蝶蘭を添えた。この花は殆ど手間もかからず、この時も活き活きとしていた。これは、わいがプログラマーとして開発に従事しているお花の通販サイト(※2)で母の日に購入したもので、母さんは「めんこいの〜」と毎日愛でており、わいの仕事が順調なのも同時に喜んでくれていた。
そんな思い出にも涙しつつ、母さんの骨を拾った。
■2020年06月25(木)
御通夜の日。
我が家では初仏なので、法要・法事に関して右もレフトも判らない状態。そんな中、大勢のマダム達がお手伝いに集まってくれた。また、急なことにもかかわらず名古屋・岐阜からも親戚が駆けつけてくれた。
わいは喪主代行として、皆さんに挨拶をする役割を担った。これは、婆ちゃん(父さんの母)のときに父さんが言葉に詰まり、周囲を余計泣かせてしまった経緯を知っている葬儀屋さんの配慮だ。わいは事前に、葬儀屋さんのご好意からスピーチの原稿を渡されており、それを丸暗記しようと賑やかになった自室で集中していた。しかし、内容が頭に入ってこない。これは失敗すると思い、自分の言葉・気持ちで、母さんのことを表現することにした。
本日は、母・信子のため御参列いただきまして、誠に有り難うございます。
喪主に成り代わりまして、長男・秀行が、一言ご挨拶申し上げます。
母さんは、頼り甲斐があり、ファッションセンスが良く、料理が上手で、何よりも、可愛らしい1人の女性でした。授業参観の日は、鼻高々だったのを、今でも憶えています。
そんな母さんですが、残念なことに、この6月23日 午後7時45分、帰らぬ人となりました。
我々は今、悲しみのどん底にありますが、最も無念だったのは、母さん本人だと思います。
ですが、こんなにも大勢の、心ある皆様にお集まり頂いて、母さんも喜んでいると思います。喪主である父も、心強く感じております。
本日は誠に、ありがとうございました。
始めと終わりだけ引き締め、母さんは可愛かったんだと言えれば、後は適当でも良いと思って望んだ。授業参観のくだりは、喋ってる途中に降ってきた。
- 兄さん「立派な挨拶だった」
褒められて嬉しかった。
■2020年06月26(金)
御葬式。記憶は殆どない。
式後は会食。今ではすっかりやらなくなってしまったが、わいが中学生くらいになるまでの期間、父さんが友達を引き連れての家呑みが盛んだった。当時、子供心に強く刻まれた”強い男達”が、30年の年月を経て一同に介した。残念ながら、本来いるはずの猛者は、だいぶ昔に何人かお亡くなりになっている。
この場では、その強い男の象徴とも言える人たちからお酌され、「まさか、こんな日がやって来るとは」と、感慨深かった。
後から押し寄せる悲しみと絶望、母さんの最期がフラッシュバックされて精神が破綻しそうだった。なので「せめて、それでも良かったことは何か?」を必死で捻り出し、その理屈で無理矢理、納得しようとしていた。
”もしも父さん・わいが母さんよりも先に逝くとしたら、この身を引き裂かれんばかりの苦痛を、母さんは味わなくて済む。せめて、それだけは良かった”、と。
■2020年06月27(土)
遺された者たちに泣いている暇などない。失意のどん底の中、急いでやることが山のようにある。
死亡届を提出した後だと、故人の口座から現金を引き落とす手続きが複雑になるため、我々は母さんの通帳・ハンコを探して”母さんが生きている体(てい)”で、むつ市にある銀行へ行こうとしていた、しかし見つからず、我々は部屋をひっくり返すように探した。一度見つかった物も、自分がどこに置いたか判らなくなるような精神状態の中、今話しかけてはいけない人に、話しかけてはいけないタイミングで話かけるため、当人はさっきまでやろうとしていたことが吹き飛んでしまったり。会話も交錯している。そこら中で、それが起きている。所謂、カオス(混沌)状態だ。
皆がポンコツになっていた。自分はあろうことか、母さんの保険証をポケットに入れたまま洗濯されたり、ついさっきまで持っていた物を見失い、それを探し直す割り込みタスクが発生し、次に何やるんだっけ?な状態に。自分が情けなくて涙が出る。わいがこんな状態になるなんて、思ってもみなかった。
行政機関での諸手続きでは「こんなことも解らないのか」と叱責されている気がして、そこでも情けなくなった。この時わいは、
「もう今では、全てがどうでも良い」
そう思っていたが、テキパキと行動する兄さんを頼もしく感じ、徐々に立ち直ることができた。
また、この日は姉・わいが5〜6歳児だったころ着ていた衣類が出てきて、当時の記憶が蘇って泣いた。
父さん「母さん、捨てられず取ってあったんだな」
■2020年06月28(日)
ありがたいことに、連日多くの方々が来てくれて、母さんの前で大粒の涙を流してくれる。来てくれた方々に最初から経緯を説明する都度、時間が巻き戻ってしまうのが辛かったが、そのうち心の底から感謝するようになっていた。
この日になると、”やることリスト”を分類で別け、優先度を付与してパソコンで作図する余裕ができていた。これは仕事でもよくやることで、全体のボリュームが判らないまま闇雲に突き進むと「今どれだけ進捗しているか?」「あとどれくらいで終わるか?」が判らないので、精神衛生上よろしくないことを経験から知っている。
この辺りから「泣いてばかりじゃいられない」と考え直し、全ての行動指針が「母さんのために」になっていた。
■2020年06月29(月)
昨日作った図に副って、粛々と行政手続きや支払いを進めた。この日も沢山の方々が御焼香に来てくれた。多くの母親にとって、うちの母さんはカリスマだったんだと思った。
姉が作ってくれた料理は、母さんの味がした。
■2020年06月30(火)
今日もあちこち駆けずり回り、”やること”を順調に消化していった。お昼前に、母さんが愛飲していたサプリメント”すっぽん小町”が届き御供えしたあと、電話で解約手続きをした。
夜は父さん・わい・姉夫婦・甥っ子で集まった。兄さんお気に入りの"故人を偲ぶ歌"として、スターダストレビュー「木蘭の涙」を皆で聴いた。こんな詩がある。
「あなたは眠る様に 空へと旅立った」
ちょっ、母さんそのまんまじゃないか。
わい「これは、俺らには未だ早い歌だね」
と、泣き笑い。
■2020年07月01(水)
父さんと2人きりの生活が始まった。少し前までは、家の中のことも仕事も、わいが丸っとやって父さんを支えようと考えていたけど、そうではなくて”父さんと一緒”にやっていく考えに変わっていた。父さんからやることを奪ってはダメだ。
大間町役場に行き、これで”やること”は一通り片付いた。どっと肩の荷が下りて楽になった。
父さんとの晩酌。母さんが買ってくれた、わいの専用マドラーがいつもの場所に見当たらない。ここ数日のどさくさで、どこかに紛れ込んだのだろうと思いつつ探し回った。
「なんだか最近、探し物ばっかりしてるね」
と父さんと笑った。その後、菜箸用のトレイで見つけたが、永久に見つからなかった場合を想像したら、涙が出てきた。
■2020年07月02(木)
- お掃除ロボットを「めんこいの〜」と見つめ、後を追いかけていた母さん。「その時間で掃除ができるね」と笑った
- 母の日に贈ったミニ胡蝶蘭を「めんこいの〜」と、茎を指でちょんちょん突いて湿っているかを確認していた母さん
- 母の日に贈ったブギーボードを、とても喜んでくれた母さん
- 独りテレビドラマに集中する母さん
- ごはんですよの空き瓶に「スプーン3杯でココア」と書くはずが「スプー3杯でココア」になってることに気付いていなかった母さん
- 缶コーヒーのおまけフィギュアを綺麗にディスプレイしてた母さん
- 常に新しい料理に挑戦し続ける母さん
- カレーにニンニクを入れ過ぎて失敗した母さん
- 江頭2:50フィギュアの写真で爆笑していた母さん
・・・などなど、母さんの思い出は尽きない。
わいも歳をとって、昔から”親の死”は意識していた。していたが、向こう20〜30年先の事だと思っていた。満65歳、余りにも早すぎる。つい4日前まで、そこに居た母さんは、もう居ない。至る所で母さんの幻影が見えて涙が止まらない。
でも今は、とにかく眠い。
一生背負っていく"わいの後悔"
大間町に帰京した後の3〜4ヶ月間、「わいはもう終わった」と思っており、食事を3〜4日とらないことはザラで、誰とも口をきかず、部屋に閉じこもっていた。たまに復調するけど、些細な出来事をきっかけに元に戻る、という精神状態を繰り返していた。
帰京の理由と上記の期間が、人生で最悪の親不孝だったと、悔やんでも悔やみきれない。母さんを何度も泣かせた。今これを書いていても己への怒りと悔しさで涙が出る。
あの時発した酷い言動などが山のように思い出されるけど、もう謝ることもできない。内孫を抱く夢も、もう叶えてあげられない。
でも今は、
「いつでも母さんが見ているから、恥じないよう生きて行こう」
そう考えることで無理矢理、自分を納得させている。
母さんが生きていた間では最後となってしまった2020年5月10日 母の日。ミニ胡蝶蘭に以下のメッセージカードを添えて贈っていた。
母上様
いつも炊事と洗濯してくれて、ありがとう
帰京して一年以上経ちました。
当時は言いようのない焦燥感から気持ちが荒れてしまい、
迷惑を沢山かけてしまいましたが、
一度も風邪をひかず、東京在住時より健康になった気がしているのは、
毎日の家事のおかげだと感謝しております。
これからも元気でいてください!
この思いを伝えることができたのが、せめてもの救いだ。
(これを書いていて、帰京して初めて風邪を引いていることに気がついた)
伝えたいこと
- 普段からお互いの体調を報告し合い、体調不良は言葉にして伝えあったほうが良い。つまらない照れで一生後悔しないために(あろうことか、母さんが高血圧だったのを家族は誰も知らなかった)
- 通帳・ハンコなどの貴重品の保管場所・暗証番号などは、普段から家族で共有しよう
- 自宅から遠く離れた銀行に口座を持たないほうが良い
- 普段から断捨離などを行い、物が多くなり過ぎないようにしよう
- 就職・上京などで親元を離れる方は、今回のようなケースが起こり得ることを熟考してほしい。ずっと親元に居ることを、何一つ恥じる必要はない
- 元気な内に、お互いの姿を写真や映像に `高画質で` 残しておこう(母さんは何故か、昔から被写体になることをマジで嫌っていて、残った映像では自身の登場シーンを明らかに編集で消していた)
- 高価だがお掃除ロボットはあったほうが良い
- 要するに終活はとても大切
「もし大切な人が明日死んだら」
これを想定し、後悔しないよう日々を大切に過ごして欲しい。
以上です。
最後まで読んでくれて、ありがとうございました。
あとがき
大間病院、青森市中央病院の医療関係者様、大間町役場の皆様、その節は無礼な態度をとってしまい申し訳ございませんでした。親族を代表して、お詫び申し上げます。特に治療に関しましては、全力を尽くされたことが今なら解ります。本当にありがとうございました。
2020年7月4日